前回(眠られぬ当直(よる)のために5)のつづき
胎児の障害が理由の中絶を認めること(胎児条項)は、障害者を無用の存在と公的にみなすことに繋がり、周囲のそういったまなざしは、障害者の自尊感情を損ってしまいます。
いま生活している障害者に対して
実体的な不利益を与えないのは間違いないっす
と彼は言いますが、出生前診断により障害児の出生が減少すれば、
ことが判りました。これは出生前診断先進国・イギリスで実際に起っていることだといいます。坂井律子(著)「ルポタージュ 出生前診断―生命誕生の現場に何が起きているのか?」によると、
「客観的な数字として二分脊椎の専門医が何人減ったか、というデータは持ち合わせていません。しかし、現場で二分脊椎を診ている医師も、アリソンさんと同じように感じていますよ」と語る。
※1 ジョン=ローバー:二分脊椎児の治療・リハビリに当ったイギリスの小児科医。予後の良くない児を治療しない、選択的治療停止の基準(ローバーの基準)を発表した
障害を理由とした中絶などにより障害児の出生が減れば、自尊感情の破壊や蔑視だけでなく、実体的な不利益をもたらすことが判りました。個人の選択が他者の利益に関るということは、単純に選択の自由やプライベートな問題といって、済ませられないことかも知れません。
カップルの決定が他人にも影響を及ぼすのなら
個人の自由、プライベートなことと言い切って良いのかどうか
うーん、ちょっと迷うっすね......
まあその前によ、障害の実態を知っとくべきじゃねーの?
良いも悪いもfactからだ
じゃあ話題になっていたダウン症候群について
実際はどうなのか見てみようか
ダウン症といえば顔貌が特徴的ですけど
一人一人はかなり個性的よ
あと乳児期に生命を左右する疾患は
心内膜床欠損などの先天性心疾患に呼吸器感染症
鎖肛・ヒルシュスプルング病といった消化器疾患ね
おめーわ何も知らないで
出生前診断や選択的中絶を語ってたのかよ
まあ上司が
アレでは仕方ねーか...
そのほか、難聴や先天性白内障・屈折異常
環軸椎亜脱臼、てんかんなどのケアも必要だね
あと知的障害や発達障害、適応障害
肥満になりやすいので、そちらのケアも
そういったケア資源もな
ダウン症の出生が減れば、失われる可能性があるんだよ
今はまだその筋のプロがいるけどな
よく言われることだけど
ダウン症の子は人懐っこくて可愛いんだよ
ダウン症の合併症に対する治療やケアが
進んだお蔭で、長く生きられる人が増えたわ
そのためか、アルツハイマー病も問題になってる
ダウン症に起るアルツハイマー病は早発でもあるしね
35〜49歳で8%、50〜59歳で55%
60歳以上で75%、平均54歳といわれてる
生命予後の改善あってこその問題点だな
ところでダウン症の平均余命はどれくらいよ?
ま、まあそれはともかく
National Association for Down SyndromeのHPによれば
平均55歳とあるね
60〜70代まで生きるとも
多くの人が苦痛少なく、人生を楽しむことができるのよ
世間のイメージとは違うの
もちろん療育・治療は必要だけど
就労可能な人もいるし、有名なところでは
NHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書いた書道家
金澤翔子さんがいるよ
おうおう、そりゃスゲーわ
スゲーけどよ
ダウン症のうちいったい何人が彼女のようになれんの?
そりゃ、みながみな彼女のようにはなれません...
彼女は特別といえば特別ですが...
それによ、傑出した才能がいるからって
それでダウン症をどうこう論じるのは
筋を違えちゃいないのか?
その論法じゃ、傑出した才能を輩出しなけりゃ
ダウン症の価値が低いってことになるのか?
どうして話をぶっ潰すこと言うんすか?
せっかくキレイにまとまりかけたのに
バッカ野郎!
キレイな話をつぶさに見るとな
だいたい中身は腐ってんだよ
白く塗った墓のようにな
しかしですよ、治療と療育とが必要とはいえ
苦痛少なく人生を楽しむことが出来るっすよ
しかも寿命も長いっす
出生前診断で選択的中絶を選ぶことに
今の僕は躊躇してしまうっすね
その治療と療育とは十分なのかよ?
親が死んだ後も、誰かがちゃんと面倒みてくれんの?
今は十分でないにしても
それを求めていくのが我々みんなの務めでしょうし
今の制度が貧弱だからというのは
何か違うような気がします
でもよ
人は制度を変えるために生きている訳じゃないぜ
何度も繰返し生きられはしないんだからな
人はみな人生を楽しむために生きてるんじゃないのか?
確かに人生を楽しみたいとは思いますが
障害ある子がいれば人生楽しめないとも思えませんよ
障害ある子は愛せない、人生を共に歩めないというのは
ペーフェクトベビー願望なんじゃありませんか?
じゃあ訊くがなぁ
生れた子をすぐに抱きしめることが出来て
親族の落胆の表情や、友人の気まずい雰囲気を経験することもなく
誰からもおめでとうと言われたい
そんな欲求は責められるべきなのかよ?
それは...
治療・療育に奔走して、疲労困憊するのは嫌だ
周囲の憐みと悪意と、そして善意の言葉に傷つけられたくない
すくすくと育つ吾が子と暮したい
入学、受験、就職、結婚、孫の誕生、そんな仕合せを味わいたい
この想いは贅沢品か?
出生前診断で判る障害は一部ですよ
成長過程で判る障害も多いし
ケガや病気で後遺症ということだって
そうさ
ごく一部の障害を知って、それを排除したところで
その後に起るすべての病気・事故が防げるわけじゃない
ほうほう、そうかそうか
なら予防接種なんて無意味だよな
ワクチン射ってもすべての病気を防げるわけじゃないから
ひひひ
それとこれとは話が違いますよ
病気と障害とは同列に語れない
予期せぬ者を迎え入れるというか
子どもを選ばないことを選ぶ、そういうことです
それは
パーフェクトマザー願望だな
マザーで悪けりゃペアレンツでもいい
先生はダウン症のことを真に理解してないんじゃありませんか?
親御さんはもちろん、ダウン症協会の人や療育担当者なら
もっと前向きだと思います!
いいこと言った!
じゃあ最後に、長らくダウン症に携わってきた人の言葉を紹介しとくわ
あとは各々考えな
もう寝る
good night !
ある医療従事者の会合で、こんな発言を聞いた。「私は長年ダウン症の子どもと保健所で関わってきて、本当にかわいく、素直で、すてきな子どもだなと常日頃思っていたんです。でも正直に言いますが、私の姪が出産するときになって、障害児が生まれませんようにと、強く祈ってる自分に気がつきました」
(ルポタージュ出生前診断・終章 いま考えなくてはならないこと 269ページ)
終り
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今回も興味深く拝見させていただきました。
出生前診断についていろいろと考えるきっかけになりました、ありがとうございます。
出生前診断は、ほとんどの人が「異常があったら中絶しよう」と覚悟を決めて受けているのではないと思います。
おそらく「異常なし」と言ってもらい、安心するためでしょう。
(もちろん、今の環境では障害児を産み育てることはできないという切迫した事情を持つ方もいらっしゃるのは知っています)
しかし、実際そういう技術がどうして開発されたかというと、やはり「障害児であることを事前に知り、中絶するため」ではなかったでしょうか。
であるからこそ「検査結果は異常ではあったが、敢えて産む」という矛盾したケースも出てくるのでしょう。
出生前診断をすること、中絶をすることについての善悪を判断する術を私は持ちません。
しかし、出生前診断は命の選別をするための技術であるということだけはきちんと理解したいです。
いつもコメント有難うございます。
どちらにせよ、確固たる意志の持ち主は少ないと思います。安心したいから受けた人は大勢居ることでしょう。検査にひっかかれば悩む。医療者からすると、受検する前に考えてよと言いたくなりますが、迷う人は後を絶たないと思います。人は悩むものだと、腹を括るしか無い。
仰る通り、出生前診断は"命を選択する"ためのものです。もっとハッキリ言えば、障害児を産まないためのもの。何も今に始まったことではありません。40年以上の歴史を持つ羊水検査、簡便なトリプルマーカー・クアトロマーカー、これすべて障害児を産まぬための検査といえます。cell-free plasma DNA検査は、あくまでその延長線上のものであり、実際は新味に欠けます。
これまでも生命の選択をしてきた訳です。それを善しとしてきた。ならば、正確な検査の出現は、喜びこそすれ、悲しむべきこと、憂うべきとこでは全くありません。
「障害児でもこんなに才能豊かな人がいる」という話は、ダウン症よりも自閉症スペクトラムで語られることが多い印象があります。
「自閉圏の子たちは傑出した才能を持つものがいるので、その遺伝子を絶やすべきではない」という論です。
しかしダウン症がそうであるように、自閉圏もまたそれに属している人たちのほとんどはハンデだけがあり特別なスキルも獲得せぬまま一生を終えます。
世界は障害者たちを必要としているとは思えません。
それでも生きる権利を周囲が認めるという形は望めないのでしょうか。
「特殊な才能を提供するから大切にする」という意見は、容易に「役に立たなければその限りではない」というところに転落します。
パーフェクト・マザー、パーフェクト・ペアレンツに関してですが、「たとえどのような障害を持つ子であっても妊娠したからには産み育てるべき。その覚悟がないものは子を作るべきではない」という強い親を世間は望んでいるのを感じます。
「健常児であれば育てられるが、それ以外は無理」という人はそもそも親になる資格がない、という考え方です。
子を生む覚悟をした以上、どのような茨の道も自己責任として引き受けよと。
これには一応の整合性があります。
しかしこの考えが世間の主流になるとますます少子化が進む、という以上に社会が目指す人間の平等にひどく反しているという点で心情的に受け入れがたいです。
いろいろ書きましたが、中絶の問題が複雑なのは「胎児の道徳的地位はどうなっているのか」という点です。
医師が胎児の異常を親に告げたなら確実に中絶になる場合、医師は胎児の命を守るためにそれを告げないということは許されるでしょうか。
法的、あるいは職業上の倫理コードとはまた別の話として、一人の人間である医師が、また一人の人間である胎児を守るためにそのプライバシーを秘するのは果たして悪いことなのでしょうか。
法的には胎児は一人の人間ではない。
しかし、多くの人は胎児を人間のように想っています。
ごく普通の人間に対して怪我や病気をしないようにと願う気持ちで胎児にも異常がないようにと考え、普通の人間が大怪我をしても「助かりますように」と祈るように、できれば異常のある胎児もこの世で生まれ育って欲しいと感じています。
その一方で、先生のおっしゃった「すくすくと育つ我が子と暮らしたい」という願いも否定されるべきではありません。
「子どもが欲しい、障害児は育てられないが健常児なら育てられる」という人々の、ささやかな願望を社会が切り捨てるべきではないと思うのです。